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幼児虐待(加藤きよ子)


◆スイスの養子縁組み

 某新聞社が発行する週刊誌'98年11月30日号によると、スイスでは子どもを捨てる必要がないそうだ。育てる意志がなければ、合法的に簡単に子どもの養育を放棄できることが、法律で認められているらしい。そうして捨てられたり産院に残されたりした子どもは、養子に出される。養子を欲しい夫婦の数が、子どもの数を上回っているほどなので、スイスでは外国の、しかも肌の色が違う孤児さえ引き取ってもらえるという。現時点で日本において「肌の色が違う」ところまで求めるのは無理があるにしても、養育者が子どもの育つ環境を整える意志がない場合くらいは真に子どもを望んでいる家族の元へ託すことが、広く一般に理解されるように力を尽くせないだろうか。

◆CAPNA(キャプナ)の挑戦

  こんなことを考えたのは、'98年10月に「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち」(以下キャプナ)がキャプナ出版から出した本「見えなかった死」を読んだのがきっかけだ。この中には様々な形の虐待により死に至るより他なかった子どもたちの類例と、都道府県別の虐待防止への取り組み、またキャプナのこれまでの軌跡、今後の課題に対する姿勢などが収められている。これを読む限り、どこかで虐待される子どもを加害者から守ることはできなかったのか、という無念が随所で起こる。弁護士、マスコミ関係者、医療関係者、大学の研究者、児童福祉関係者、教員など、多くのスタッフの力で、虐待に立ち向かうキャプナの原動力も、そんな行き場の無い無念さから発せられているという気がした。

◆虐待死とは

 子どもの虐待に関しては、新聞やテレビなどで報道される程度にしか知識がない方も多いと思うので、ここにその定義と概要を記しておきたい。いずれも、ここでは18歳未満の子どもが被害者となった死亡事件が対象である。大きく4つに分類される。

 まずは「せっかん死」。被害者には3歳前後の第一次反抗期の子どもが多く、加害者となるのは実母と、その同居人が多く見られる。動機も「しつけのため」という言葉が頻繁に使われ、生活習慣に関連する事柄に、養育者が過剰な反応を示したとしか考えられないような内容が目立つ。たとえば、「買い物の途中にだだをこねたので殴った」とか「早く寝ろと強く叩いた」など、幼児ならば誰でも通る道であることを全く理解せず、大人の基準で善悪が判断されている。

 第二が「無理心中」。殺人に自殺がプラスされたという点で、子どもの未来の可能性を摘みとってしまう「無理心中」も、キャプナでは虐待行為の中にカテゴライズされている。この場合、加害者となるのは圧倒的に母親が多い。単なるせっかん死に比べ、世間に同情されることが多いため、無理心中願望を抱く人が後を絶たないと書かれていたのが印象的だった。「子を道連れに死ぬのは犯罪であり、子どもの権利を侵害する行為であり、誰にも同情されない」という意識を社会に根付かせることが必要だと説かれている。

 第三は「ネグレクト」。産み捨てに加え、夏場に何度も報道される、車内や建物に放置された幼児の熱中死、衰弱死もここに含まれる。自分で身を守ることができない幼児から目を離すこと自体、理解に苦しむが、キャプナではそれを責めるのではなく、なぜ悲劇的な結果に至ったかを考察しているところが意義深い。

 最後が「発作的殺人」。これも加害者のほとんどが実母であるのが特徴で、正常な判断能力を失った状態、あるいは心身耗弱の状態で起きた殺人と言われている。動機はそれぞれに違うが、その背景には、夫や家族の子育てへの協力がなく、一人で背負いこんだ母親が心理的に追い詰められたり、また子どもの病気や障害、経済的な問題を苦にしてなどがある。ここで、一つ一つ具体例を挙げることはできないが、読んでみると本当に痛ましい。この平和で外的に脅かされる必要のない国で、やっとこの世に生を受けることができた小さな多くの命を守り抜けなかったという事態を、真剣に受け止めるべきだと思う。でなければ、幸薄かったであろう被害者の子どもたちが酬われない。

 キャプナの調査によると、1996年に死亡した子どもの数は86人。97年には104人にものぼっている。いったい98年分としては、どんなデータが報告されるかを考えると、やりきれない。また、死に至らないまでも、それに準ずる仕打ちや恐怖を味わっている水面下の子どもたちもたくさんいるであろうことを想像すると、手をこまねいていることがもどかしくなる。

◆子どもたちへの責任の所在

 記憶が定かでなくて申し訳ないが、数年前、ある全国紙の投書欄で、若い母親の投書を目にした。内容は「時代を担う子どもを養育しているのだから、行政や福祉の手で、もっと子育てをする母親を支援してもらいたい」というものだった。数日して、その返答をするかのようにすでに子育ての季節を終えた熟年女性からの投書が載せられていた。そこには「甘えるのではない。子どもは単に子どもでしかない。母親が社会に役立つ人間になるようしっかり育ててこそ、その人間は、初めて社会に対して権利を主張できる。だから、人の役に立てるような人間を、頑張って育てなさい」という主旨のことが書いてあった。
  その頃の私は、先の若い母親と立場を同じくする一人だったので、熟年女性の意見には非常に反感を持った。なんと狭量な考え方をする人だろう、と。子どもは個人の持ち物ではない。また、先進国を自ら名乗る日本という国において、産んだのだからという理由で母親のみが子育てへの全責任を担うには、あまりにも荷が重すぎる。子育てに向いている母親もいれば、そうでない母親もいる。母親の個性や結婚相手の当たり外れで、子どもの運命が左右されて良いものか考えてほしい。それではいつまでたっても経済的、精神的に豊かな環境で育った子どもが得をし、そうでない子どもは自分でもあずかり知らぬところで損をするという事態が起きてくる。何らかの理由で、きめ細やかなケアを受けられない子どもを含めて、すべての子どもたちが手厚い保護と大きな愛情に包まれて育つことができるのが、真に成熟した社会と言えるのではないだろうか。
 先の投書欄に登場した若い母親は、何気ない気持ちで、あるいは勇気を振り絞って、社会に向けて声を上げたのかもしれない。それに返答したのが、時代錯誤的な考えを声高に述べる熟年女性であり、掲載したのが新聞というメディアであるという事実は、いったい何を表しているのだろう。

◆選択肢があることの重要さ

 子育ては、すでに家庭という小さな範囲で取り組むべきことではない。未来を担う国家の宝として、さらにグローバルな視点から地球規模で子どもたちを期待と慈しみの目で見つめてほしい。そうすることが、産みはしたが育てられなかった親、産んだ子どもに対して、愛情をかけられなかった親、そしてその子ども自身、全てを救うことに繋がっていくと信じたい。
 産んだなら育て上げねばならない、産まなかったら育てることはできない、などとこだわるのではなく、選択の幅がもっと広がっていくことを期待したい。また、女性が社会復帰する際の保育制度の立ち遅れや、養子縁組みに伴う、いわゆる「白い目で見られる」ことからの解放など、取り組むべき課題は数え挙げればきりがない。
 しかし、、子育てに関わるもの、そうでないもの全てが、子どもを取り巻く環境の整備に真摯に取り組むことが実現したなら、不幸な生い立ちや死に至らしめられてしまう子どもの数をゼロにすることも可能だと思う。現実を嘆くことより、未来へ向かって一歩一歩前進していく方がずっと難しい。が、人にはそうする知恵も勇気も力もあるはずであるし、また義務でもある。
 冒頭に挙げたスイスの養子縁組みの話題は、少々乱暴な展開ではあるが、子どもを取り巻く環境を今とは別な方向へ転換していくためのヒントになるかもしれないと、あえて書き添えてみた。
 小さくて、それでも重く尊い命を、どんな形で育んでいくことが、輝く未来へと繋がっていくのか。今こそ、有識者のみに方策を委ねず、一人一人の微力な力を合わせていく時が来たのだと思う。そうして、理不尽に幼い命が葬られることが、一日も早くなくなることを心から願わずにはいられない。