<< ママたちのレポートTopicsに戻る


STOP!危険 「車での危険」について(堀田智恵美)


 現代社会において子どもは、大人では予想もつかない危険にさらされている。今回、数限りない危険の中で、幼児期における「車」での危険に焦点をあててみることにしよう。

 「車」は昨今、一家に2台あっても珍しくない時代である。非常に便利な物であり、買い物には自分専用の車でという主婦は私の周りでもたくさんいる。昔より現在の方が子どもが車に乗る機会が多くなっているということである。私の子どもの頃は、「車」に乗る機会は週に一回程度で、日曜日に父の運転でどこかに行くくらいであった。習い事などは徒歩や自転車で行くのが当然で、もちろん母は免許を持っていなかった。日頃から「車」を必要としない生活をしていたのである。余談はさておき、とにかく今の子どもたちは「車」に乗る機会が多く、その分危険も伴うのである。
 「車」での危険と言えば、事故が一番と思われるであろうが、他にも幼児期の子どもたちにとっての危険はたくさんある。もちろん生死に関わるような危険は事故が筆頭に挙げられるであろう。しかし、小さな事から大きな事故を引き起こすことも実際に起こっているのである。親にとっては思いがけない事だろうが、ちょっとした不注意や、「まあ、いいだろう」という妥協が、大きな事故を招く事も少なくない。「幼児期の火傷は親の責任」とよく世間で言われているが、「車」での事故も一方的な相手からの事故を除けば、その域に入るのではないだろうか。
 では、生死に関わる事故から「あっ!しまった」と思う程度の事故までいろいろと挙げてみよう。

◆衝突事故

 衝突事故は、幼児に対してなど関係なく、ドライバーなら誰しも注意しなければならない。しかし、幼児期の子どもを乗せている時は特に注意が必要になってくる。乳児期の頃はチャイルドシートに結構おとなしく乗ってくれるが、2〜3歳になるとチャイルドシートを嫌がったり、自分でチャイルドシートから離れてしまったりして、親の「まあ、いいか」という気持ちで座席に座らせていたり、親が抱っこしたり、ドライバーが抱っこしたまま運転したりと、非常に危険な状態にさらされてしまうのだ。こんな状態で衝突事故を起こしてしまって、ゾッとするような結果になることは少なくないだろう。
 あと、子どもが話しかけてきたり、泣いたり騒いだりで子どもに気をとられ、わき見運転になってしまい、衝突事故につながってしまう場合もある。子どもと車で外出する時は、子どもがぐずったりした場合、停車して機嫌を直してから再走行できる位の時間の余裕を持たなければならない。

◆急発進・急ブレーキ

 子どもを乗せている人が、わざわざ急発進や急ブレーキをかけようとはしないだろう。とっさの判断がさせてしまうケースが多いと思うが、そのとっさの判断というのが危険度を増してしまうことになる。なぜならとっさの時、子どもを気遣えるだろうか。もし助手席に子どもがチャイルドシートにも乗らずに座っていたら…急ブレーキはドライバーが感じるより、助手席に乗っている方がはるかに強く感じられる。小さくて体重の軽い子どもたちなら度合によっては前に飛ばされてしまい、大きな事故になりかねない。後ろに乗っていたとしても、座席からの転落が考えられるし、おもちゃなどを持ちながらの転落は思いがけない大きな事故を招く場合もあるだろう。
 急ハンドルも同様な危険が考えられる。ドライバーにはさほど急ハンドルには感じられないものでも、どこも持たずに乗っている子どもは頭を窓で打ったりするのである。
 衝突事故と同様にチャイルドシートやシートベルトの重要性を感じる。

◆乗降時

 子どもを持つ人なら一度はひやっとしたことがあるのではないだろうか。抱いたままの乗り降りの時に子どもの頭をドアのところで打たせてしまう。これは乳幼児の頃の方が多いかもしれないが、親の援助が必要な幼児期ではまだ油断できない。それよりも親がひやっとさせられるのが、ドアで手を挟むことだ。私にも経験があるが、これは一瞬子どもの手が怖くて見れなくなってしまう。私の場合は大事には至らなかったが、ちょっとペタンと変形してしまった娘の指と、いつもと違う泣き声に動揺したのを今でも鮮明に覚えている。
 手を挟むのは子ども自身でしてしまうケースもある。幼児期は自分でいろいろしたいと言って親を困らせる頃でもあり、包丁を使ってみたいとか階段を一人で降りたいとか、「車」からの乗り降りもそうである。それまでは親がしてあげていたのに、自分でしてみたいという子どもの意見を尊重すべきか、言い聞かせて補助をすべきか迷ってしまう事は皆さんにも経験があるのではないだろうか。この様な場合、始めの頃は親も注意しているのだが、段々慣れてしまい、一人でやってくれるという親の「楽」も加わって目を離してしまうことが多くなってくる。そのような時にドアで手を挟んだりしてしまったりする。親が注意を促していても、経験の少ない幼児期の子どもは注意されているドアの閉まる方ばかり意識して、反対側の方に手を添えたままで挟んだりしてしまう。このような大人にとっての「常識」は、子どもには通用しないのである。

◆その他

 パワーウィンドウで挟まれたりするのは稀かもしれないが、夏の暑い車内に親がパチンコをしている間子どもを置き去りにし、とりかえしのつかない事になってしまったという事故は誰もが一度くらいはニュースや新聞で見たりしたことがあるのではないだろうか。「なんでそんなことをしたのだろう」と不思議に思えるが、親がわざとそのような状況になることを望むはずはない。核家族が増えている中、育児の大変さ、不安、孤独を考えると複雑な気持ちになる。神経質になりすぎるのも良くないことだが、大人なら簡単なことが、子どもでは暑い車中から出るという手段さえ持つことができない可能性が充分考えられるということくらいは知っておかないといけない。
 あと車庫入れなどで、子どもを先に降ろしてからバックし、ドライバーの死角に子どもが入って見えないまま、そのことに気付かず子どもを引いてしまったという事故も耳にしたことがあるが、このような事故は親の注意でしか防げないものであり、子どもに責任を投げかける事はできない。幼児期の子どもに、じっとしていなさいと言う方が無謀だからである。

 このように「車」に関する危険を挙げてみたが、まだ他にも小さな事故から大きな事故までたくさんある。子どもの視線から物を見、考え、どのような事が起こり得るか推測するのも一つの防御策ではないだろうか。
 ではここで3歳の娘を持つ母親として、実際に起こったことを体験記として挙げてみることにしよう。

◆体験記

 現在3歳になる娘は、車に乗る時「ひとりでする」と聞かず、車の乗降からドアの開け閉めまで全て自分でやらないと気がすみません。私はいつもヒヤヒヤして見ています。義弟が買ってくれたチャイルドシートにも泣いて乗りません。毎回泣かれることが嫌になり、後部座席に座らせています。でも機嫌の悪い時は助手席に来たりもします。運転中なのに抱っこをせがんできたり、大変危険なことだとはわかっているのに、妥協している自分に自己嫌悪になったりしたこともあります。
 「車」とは関係ありませんが、一年前位に娘が自転車に引かれたことがありました。青で信号を渡っていたのですが、前を自転車が横断してきたのです。娘が私の手を離し、走り出した直後でした。「あっあたる」と思った時には声も出ず、手も出すことができませんでした。私は止まったままなのに、子どもが自転車に当たる瞬間はコマ送りのように見えました。でも手は出せなかったのです。幸い大事には至らなかったので良かったものの、何もできない自分の無力さに数日間落ち込んだのを覚えています。突然の出来事には親としても何もできないかもしれないと思うと今でも怖くなります。

◆これから

 今回、「車」についての危険を取り挙げてみたが、危険に対しての親の心構えは他のいろいろな危険にも共通するのではないだろうか。
 まず、「車」に対しての危険回避として、チャイルドシートは必須だと私は考えるが、チャイルドシートを車につけるだけでは危険回避にはならないだろう。チャイルドシートは危険回避への一つの手段と考えるのが妥当である。
 普段の生活での危険にもいろいろな安全グッズが取りそろえられているが、安全をお金で買って我が子を危険から防いでいるという錯覚に陥ってしまうのは、物が豊富な現在では仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、私たち親はもっと原点に戻って考えるべきではないだろうか。ヒーターの周りを囲む物、紙しか切れないはさみ、開けられたくない扉のロック、コンセントの差し込み口のカバー、転落防止の階段のフェンス…etcどれもこれも子どもを危険から守るためにはありがたい物なのだが、私たち親はそれに頼りすぎている様に感じる。忙しい育児生活の中、安全性より便利さが先に立ち、「安全グッズ」が「大人の便利グッズ」に変わってきているのではと感じるのである。その油断が新しい危険を生んでいることも考えられる。
 動物たちは体を張って子どもを守っている。私たちも「安全グッズ」ばかりに頼るのではなく、親が気を配ることを前提に安全グッズに応援を頼む位の心構えでいなければならないのではないだろうか。このような事を書く私自身、耳が痛くなる話が多々あるが、少なくともそうありたいという気持ちは持っていたい。子どもを私たちの手で危険から守ろう!
 いや、子どもを危険から守るのは私たちにしかできないのである。